貞源寺の歴史

貞源寺は、関が原の戦いの翌慶長6年(1601)年、慶誉春公上人によって開創された浄土宗の寺院です。
記録によりますと、開創時の様子は次のようなものです。春公上人は、三河国(愛知県東部)、浄土真宗東正寺の住職で、(後の)徳川家康が尊敬し帰依していました。
平素から家康は、「自分が天下を取ったら都に寺を建ててやるから、訪ねてくるがいい」と言っていました。
その言葉どおり、天正18年(1590)、豊臣の大名として関八州を治めるべく江戸城に移り、後に天下人となります。
春公上人は、約束どおり本尊・阿弥陀如来立像を背負って上京し、人を介して家康を訪ねますがナシのつぶて。
ある日、家康が鷹狩をするという話を聞き、狩りをしている江戸城曲輪に訪ね、「約束どおり上京しました」と言うと、家康はにわかには思い出せず、春公上人が委細を話したところようやく思い出し、その場で、馬の鞭で地面に四角く線を引き「ここに寺を建てよ」と言ったというのです。

これが「貞源寺は慶長6年、江戸城曲輪内で建立された」ということの内容だと『文政寺社書き上げ』に書かれています。
以降、江戸城の区画整理でお茶の水に移転し、そこで明暦3年(1657)、俗に言う振袖火事で被災し浅草・松葉町(現在の台東区松が谷)に移転しました。
浅草といえば上野のすぐ近く。
享保年間、幕府から「上野に神君さま(家康)をお祭りしている東照宮があるのに、そのお膝元に東正寺(とうしょうじ)という寺があるのは紛らわしい。寺名を変えよ」といわれました。

本寺である増上寺(現在の港区芝)に相談しましたところ、時の住職・学誉冏鑑(げいかん)大僧正から「東正寺は、家康公と因縁のある寺であるから、同じく家康公から帰依されていた増上寺の中興・観智国師の法名である貞蓮社源誉から貞源寺と名乗るがいい。東正の寺名は院号とせよ」と言われ、貞源寺と名乗るようになりました。

現在は、永康山東正院貞源寺と称しています。
紆余曲折を経て大正12年、関東大震災に被災します。貞源寺第17世仁誉学道上人(姓は以降「藤木」)の代です。浅草は寺町で十分な敷地もないことから、かねてより東京府豊玉郡野方村沼袋(現在の中野区沼袋)に移転を計画し、墓石の半分近くを移していた時点での被災だったそうで、現在の地での再建となりました。
14年後の昭和12年(1937)、都内でも有数の伽藍を再建し、かねての寺名に由来した東照幼稚園も開園しました。
しかし昭和20年空襲に遭います。東京の下町は3月10日の空襲が語り継がれていますが、当地の辺りは5月24日の空襲でした。学道上人は、自分の代で2度も大きな災害(火災)に遭遇したことになります。それまで山号は栄康山(文字は榮康山)と称していましたが、「榮」という字は“火”が2つもある、もう火はこりごりだということで、以降「永康山」と記すことにしたそうです。

昭和30年(1955)、学道上人が遷化し、嫡子・浄誉宏清上人(現在も健在)が第18世として住職を継承し、同54年(1979)、長男・源誉芳清上人に第19世として継承しました。
平成16年(2004)、芳清上人が遷化したため、10ヶ月間の宏清上人代務住職を経て同17年(2005)、二男・康誉雅清が第20世の法灯を継承し、現在に至っています。