年表
「隻腕の美剣士」「伊庭の小天狗」などでお馴染みの伊庭八郎。略歴をご紹介します。
1844年(弘化元) | 心形刀流剣術八代目の伊庭軍兵衛秀業の長男として生まれる。 |
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1864年(元治元) | 講武所剣術方として、家茂警護の一行に加わり上洛。 御書院番松平駿河組となる。 奥詰め(石高300俵10人扶持)となる。 |
1865年(慶応元) | 第二次征長戦争のために上洛する家茂を護衛して江戸を発つ。 |
1866年(慶応二) | 奥詰め、講武所剣槍方が遊撃隊に改編され、遊撃隊に入隊する。 |
1867年(慶応三) | 将軍慶喜の護衛として大阪に下る。伏見に布陣する。 |
1868年(慶応四) | 鳥羽伏見の戦い。胸部に被弾し吐血する。 旧幕軍退却に反対するが江戸退却を余儀なくされ幕艦で江戸へ。 上野寛永寺に謹慎中の慶喜の護衛をする。 旧幕府・海軍副総裁・榎本武揚の邸宅を訪れ、同盟を約す。 江戸城開城。慶喜は水戸へ引退。 遊撃隊本隊は水戸へ随行。 千住大橋まで慶喜を見送った後に脱走し、旧幕府艦隊に身を投じる。 請西藩主・林昌之助の協力により、遊撃隊を結成する。 上野で彰義隊と新政府軍の戦い。 小田原藩と戦闘し和睦が成立するが、小田原藩がすぐに敵対する。 ※その際「反復再三、怯懦千万、堂々たる十二万石中、また一人の男児なきか」という啖呵を切る。 箱根山崎の戦い。左腕を負傷し切断する。 榎本艦隊の美加保に乗り蝦夷地に向かうが、台風のため座礁。 |
1868年(明治元) | 横浜から外国艦に乗り函館に到着し旧幕軍に加わる。 ※横浜で潜伏中に「あめの日はいとど恋しく思ひけり 我がよき友はいずこなるらめ」という和歌を詠んだ。 |
1869年(明治二) | 折戸台場で激戦。親友の本山小太郎戦死。 ※戦死をした親友に対し「まてよ君 冥土もともと思ひしに 志はしをくるる身こそかなしき」という挽歌を詠んだ。 木古内の戦いで胸部に被弾し函館病院に収容される。 五稜郭で没。享年二十六歳。 命日は5月12日と伝えられる。 墓所は東京都中野区の貞源寺。法名は秀穎院清誉是一居士。 |